6月号 いろは歌の写経歓進
語り手:薬師寺副住職 山田法胤さん
――平成2年からは薬師寺末寺の喜光寺の住職も務められてますね。
山田 住職が亡くなり、就任することになりました。行基ゆかりの寺で、復興整備すればいい寺になると言われ、行くことになりました。本尊の阿弥陀如来に自分が住職をしてもいいか問うと、「おまえでもいい」とニコッと微笑まれたように感じましたね。
――どういうふうに復興を計画されたのですか。

語り手:薬師寺副住職 山田法胤さん
――平成2年からは薬師寺末寺の喜光寺の住職も務められてますね。
山田 住職が亡くなり、就任することになりました。行基ゆかりの寺で、復興整備すればいい寺になると言われ、行くことになりました。本尊の阿弥陀如来に自分が住職をしてもいいか問うと、「おまえでもいい」とニコッと微笑まれたように感じましたね。
――どういうふうに復興を計画されたのですか。
語り手:薬師寺副住職 山田法胤さん
――法薬師寺という寺のカラーについてもっと知りたいのですが。
山田 伽藍でよく修学旅行生を案内していた時は、学生ができるだけ退屈せずに、生き生きと聞いてくれて、帰るときに楽しめてよかったと思ってもらえるように考えて話をしたものです。「現場からの発想」というのが大切で、何かの法要の際にも来てくれる人の立場に立って、参加してよかったと喜んでもらえないかと一生懸命考えています。
――確かに、薬師寺の伽藍では僧侶が修学旅行生や信者らを案内しているのをよく見かけます。
語り手:薬師寺副住職 山田法胤さん
――法相宗についてさらにうかがいます。法相宗の唯識はどういう考え方をする教義なのですか。
山田 ウソとホントという話をしましょう。人は実は心の影をホントと思って生きているのです。子供のころは大切と思っていたことが、大人になるとどうしてこんなことが・・・と不思議に思うことがありますよね。これはその時の心の影が世界の見方をつくっているせいです。小さなころに認識したことがその人の見方、考え方をつくってしまうのです。
――もう少し具体的な例があれば分かりやすいのですが。
語り手:薬師寺副住職 山田法胤さん
――50年にわたり薬師寺の移り変わりを見てこられたわけですが、若いころは薬師寺に対しどういう見方をしておられましたか。
山田 入山した当時、葬式をせず墓地も持たない薬師寺は貧しいものでした。若いころはどうして葬式もせず墓もないのかと思いましたが、そういう寺院こそが本来、仏教の教えを説く場なのだということが分かっていきました。一般的にお寺というと死者を極楽に行かせてくれるのが目的のように思われがちですが、薬師寺はそうではなく、国の繁栄や万人の幸せを祈ってきたのです。
――そうしたことは南部の大寺院全体に言えることですね。
語り手:薬師寺副住職 山田法胤さん
――ところで、大学を卒業した年にはアリューシャン列島のアッツ島へ戦没者の慰霊法要に行かれたそうですね。
山田 アッツ島へはアンカレジからアメリカの軍用機で行き、5日ほどかけてあちこち回りました。日本では暑いときでしたが、現地は夜になると5度程度に冷え込んだと思います。遺体は処理されておらず、そばに墓標だけが立てられて草が青々と生える寂しい光景が目に焼き付いています。それに、日本の羽田(空港)に戻ったときに感じた悪臭に驚きました。
――その悪臭とはどんなものですか。
語り手:薬師寺副住職 山田法胤さん
――寺での生活は厳しく逃げ出したくなることもあったのではないですか?
山田 母親に「あんたの帰るところはなく、薬師寺があんたのすべてや」と懇々と言われ、西ノ京駅は(進むか戻るかの)峠みたいに感じられました。大学を卒業したとき、師匠から父の墓参りに行くように言われ、故郷に帰らしてもらいました。そのころ高田好胤元管長が私にぴったりの歌があると言って、「山家そだちの五郎助が・・・」で始まる明治の詩人、薄田泣菫の歌を教えてくれました。1番は五郎助が町に出て20日目で、故郷への峠道までやってくるが、辛抱して戻る内容。2番は9年目で、故郷に初めて帰る歌です。私はこの歌を自分の身の上に重ねて辛抱しました。「辛抱こそ人生の宝なり」が私の語録の1つです。
――今は辛抱ということがあまり言われない世の中ですね。
語り手:薬師寺副住職 山田法胤さん
――出初めて薬師寺を訪ねた日のことは覚えていますか。
山田 母親とバスと汽車を乗り継いでようやく近鉄西ノ京駅に着いたときのことを覚えています。駅をでると、何もない暗い通りが続く、寂しい所でした。その夜は何ヶ月も干したことのないようなふとんで寝、翌朝は4時半に起こされてお堂に行き、おかゆを食べ、ぞうきんで掃除をしました。その朝、師匠の橋本凝胤さんと正式に会い、新たな生活が始まったのです。そして駅で母親と別れました。
――当時の薬師寺は今とはまったく違ったでしょうね。
奈良・薬師寺は、創建当時をうかがわせる東塔と、昭和に復興された西塔が並ぶ、古さと新しさが共存する寺だ。副住職の山田法胤さん(65)はこの寺に入り今年で50年。伽藍が次々と復興されていく寺でユーモアと含蓄にあふれた法話を続けている。入山当時のことや薬師寺、仏教のことなどについて聞いた。
語り手:薬師寺副住職 山田法胤さん
――出身は岐阜県根尾村(現・本巣市)と聞いています。子供のころは自然の中で遊んだのでしょうね。
山田 夏休みなんかは、毎日揖斐川の上流でカッパのように遊んでましたよ。アユやウナギを捕ってね。私はガキ大将で、友達も多かった。今の子供と違って遠出なんてありませんが、一度だけトラックに乗って岐阜の長良川に花火を見に行ったのを覚えています。
――そんな根尾から薬師寺に贈られたものがある。
文・写真 吉田幸蔵
今回のぶらっと一人旅は、木曽川畔の40mの岸壁にそそり立つ犬山城に出かけてみることにした。
犬山城は江戸時代の天守閣が現存する12の城のうちの1つで、国宝に指定されています。犬山城は1469年に建てられたお城を、1537年に織田信長が、今の木曽川畔に移築したことから始まるそうだ。
犬山城の立地故か、織田信長の美濃攻めや、小牧長久手の戦いの時には、豊臣秀吉が入城したりと、幾度か歴史には登場してきています。信長や秀吉の家臣は目まぐるしく入れ替わり、尾張徳川藩の支城となり、その後尾張徳川藩の家臣の成瀬氏が城主となったそうで、今の天守閣は1537年に移築され日本最古の天守閣であり、個人の所有の天守閣でもあるそうだ。犬山城には本殿と拝殿を備えた当地の産士神が祭られた針綱神社があり江戸時代には成瀬政親の祈願所でもあったそうだ。
文・写真 吉田幸蔵
今回の旅は、津島市で毎年行われる「尾張津島天王祭り」に出かけてみることにした。
「尾張津島天王祭り」は毎年7月第4土、日曜日に、津島神社と天王川公園で繰り広げられる大祭りで、一般的には津島川祭り・津島祭りとも呼ばれているそうだ。一般的に知られる神葭神事と車楽による川祭りが中心になるそうだ。「尾張津島天王祭り」の由来は、須佐之男命が、西の海より津島湊の河口にある市江島に接岸した折りに、草刈りの童子が遊び戯れているのを見て、稚児の舞、笛の譜を作ったそうだ。その後、疫病の流行とともに神を慰めるため、この祭りが行われる様になった説と、後醍醐天皇の子孫、南朝の良王を守る津島武士(四家七党)が、北朝方の武士を舟遊びに呼び寄せて、討ち取ったことなどの説があるそうだ。
文・写真 吉田幸蔵
今回はタオルを肩にかけ古知野町の広見湯に出かけてみることにした。昭和29年6月に古知野町・布袋町・宮田町・草井村の4町村が合併して江南市は誕生した事は皆さんはご存知の通り。
〝広見湯〟現在は野呂芳夫さんが銭湯を守ってみえるが、創業は曾祖父で明治40年頃で100年近くの歴史がある。
文 吉田幸蔵
今回は古くから古知野に伝わる〝古知野まつり〟に出かける事にした。といっても私もお祭りの奉賛会のメンバーとして出るのだ。
〝古知野まつり〟は古知野神社の春の祭礼で、毎年4月の第3日曜日に、古知野町・赤童子町を中心に行われています。〝古知野まつり〟はそもそも42厄を迎える、前厄・本厄・後厄の人達が献馬を引いて町の中を練り歩くことで知られている。又〝古知野まつり〟を昔のように復活させようと、本町の角新商店の大池さんが骨折られて昭和61年から「古知野奉賛会」を組織化され、厄年の3頭の献馬以外に、5頭の馬も町の中を練り歩くようになった。42厄の3頭の献馬は早朝6時頃から町の中を「ワッセイ・ワッセイ」の掛け声と万歳をしながら夕方まで練り歩くのだ。又我々の奉賛会の馬は11時に古知野町の中心部にあるライオン公園に集まり順次古知野南小学校へ向けて出発していく。
文・写真 読者K様より
成田からのスカンジナビア航空を三回乗り換えて、最初の目的地スウェーデンのアビスコ国立公園の山荘に23時間かけて到着した。今回の旅行はオーロラの撮影が目的である。
早々にカメラの準備にかかるが、初日は残念な事に撮影できなかった。二日目、短い日照時間を利用して犬ぞりをサーメ族の部落で楽しむ。残念な事に夜は猛吹雪のために二日目も撮影が出来ずじまい。三日目は欧州の最北を走る「オーフォート鉄道」に乗車して国境を越えてノルウェーのハシュッタと言う都市に移動する。北へ移動すれば撮影条件が良くなるためだ。しかし、逆に天候が良すぎてオーロラは出ずであった。今度はハシュッタから豪華客船に乗船してホーニングスボーグに向かう。一泊の船旅である。
文・写真 吉田幸蔵
♪♪雨がしとしと日曜日~、僕は~ひと~り~で~♪♪なんて古い歌を口ぐさみながら、雨が降るなか岐阜県可児市で開催中の花フェスタ岐阜に出かけてみた。雨だから人は少ないと思いながら出かけてみたがすごい人で、カメラの機材を担いで20分も歩かされてしまった。東ゲートにやっとの思いでたどり着いた。すごい人だ。係の人に聞いてみた。
会場は「ばらゾーン」「交流ゾーン」「葉っぱゾーン」に分かれているそうだ。バラ園には7000品種以上のバラが1万本以上咲き誇っているそうだ。会場内には開発が無理とされていた、もっとも青に近いといわれる「青いバラ」や岐阜で品種開発された「ロゼヴィアン」「ハイネス雅」「ハイネン愛」なども咲いているそうだ。
これからの時期、特に2月から3月にかけて、バレンタインデー、ホワイトデーなど、とかく行事が多く見受けられます。街のショーウインドーの色もそれにつれ様変わりしカラフルなショーウインドーを見ることで、少しは寒さもやわらぐことでしょう。しかし同じ鮮やかな色を見ても、人によりその色から得る情報は違います。
それは「色」というものが見る人の意識によって、見る時の状態によって異なって感じられるからです。
お正月の「赤」、真夏の「赤」、元気な状態に見る時の「赤」、病気の時、あるいは落ち込んでいる時に見るときの「赤」、全く同じ感覚を抱くことはないでしょう。
このように「赤」というものは決して一人歩きをすることなく時の流れ、光の移ろい、空間の成り立ちなど、すべての事象と共にあることで、私達の心の中を映し出してくれます。
また、同時に私達の心の内部からも発生します。もっと、私達は毎日の生活を楽しむために、色を通して本来の自分の心に耳を傾け自分自身を解放したいものです。
夕焼けに感動をおぼえる時、一輪の花をいとおしく想う時、私達は自然と共存していることを改めて感じます。その瞬間、自然の色の醸し出す波動に私たちは無意識に引き寄せられているのです。
だからこそ、美しい情景に素直な気持ちで向かい合うことができるのです。「色」は私達を無邪気にさせてくれ、そして自分でも気づいていない正直な心を教えてくれます。
多くの方々に、もっと「色」とふれあう楽しさを純粋に楽しんで頂けたらと思います。